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同人サークル<アレ★Club>公式ブログ(通称:「アレ★Blog」)

ジャンル不定カルチャー誌『アレ』を作っている<アレ★Club>の日々の活動記録です。

屁理屈談義(3)暴力が論理を決める(哲学ジャンキー編)

屁理屈談義 山下泰春 市川遊佐

こんにちは、<アレ★Club>副代表の市川遊佐です。先日、代表の山下泰春君と「屁理屈とは何か」について話しましたが、その時の結論は、論理の体系というのは「そうとしか考えられない枠組み的な感覚」に支えられたものである、というものでした。

 

areclub.hatenablog.com

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そこから我々は、感覚に基づいているのなら、論理の体系は複数通りありうるのではないかという可能性に思い至りました。

 

★対談者紹介★

市川遊佐
<アレ★Club>の副代表。フランス現代思想を趣味でかじってた。でも好きな本は『死に至る病』で本職は理系。

▲山下泰春
<アレ★Club>の代表。ドイツ観念論(カントとかヘーゲル)とか読んでた。最近はメディアとか文学に浮気しがち。なんかアカい。

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市川遊佐(以下:市川)
……ああ、論理と自然とを切り分ける必要があるのか。

 

▲山下泰春(以下:山下)
どうしたんです突然?

 

市川
いや、哲学的にひらめいたんだよ。普通、僕たちは「論理的に正しい推論は自然界で実際に起こりうること」だと考えてる。それどころか、論理の本質を「自然界で通用する推論か否か」だと思ってる人も多いと思う。つまり、論理的に考えればちゃんと現実に迫れると思っているわけ。でも、この間の僕たちの「論理の体系はそうとしか考えられない感覚に基づいたものだ」という考えに基づけば、全く違う論理とその体系の姿が見えてくる。

 

▲山下
と言いますと?

 

●市川
実は、ある論理の体系において「正しい」ことは自然界でそれが「機能する」こととは関係がないんじゃないかな。論理的に正しいか否かは、その論理体系を使う人が「そうとしか考えられないか否か」だけで決まる。そして、それは自然界、つまり現実それ自体とは関係のないことなんだ。

 

▲山下
現実それ自体、というのはカントの言う「物自体」ですよね。つまり、アプリオリ(先験的)であるか否かは「そうとしか考えられない」か否かに依るのであって、物自体がどうだということには関係がない、と。よりアプリオリという言葉の文字通りの意味に近いですね。
カント的に「論理を通してしか人は世界を考えられない」という考えを踏まえると、自然界の記述は各論理体系それぞれの枠組みで行われるので、論理が複数ありうるならば自然界は各論理体系ごとに多様に認識されるということになりますね。つまり、論理体系の数だけ現象(世界の見え方)があるってことですかね。

 

市川
そう、そういうことを思い付いたんです。論理は各人の思考の限界に他ならないのではないか、ということです。そしてその限界は人によって違う。養老孟司の『バカの壁』みたいな話なんじゃないか。各人それぞれに壁があって、その壁の外は見えないのです。そしてその壁の外について説明されても理解できないようになってるんじゃないだろうか。

 

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▲山下
ありうる説だと思いますよ。

話を進めると、各論理体系が各人の考える世界の枠組みになっているなら、各論理体系それ自身からは「機能しない」論理って現れないのかもしれませんね。つまり、自分の論理で考えたモノは、自分の論理の中ではボロがでない。というわけで、機能しない論理は常によその論理体系の産物でしかありえない。おかしな話を持ってくるのは常に他人で、自分はいつも正しく見えると。
でも、それでも論理体系として「苦しい」「苦しくない」っていう程度の差は観測できますよね?たとえば天動説も座標変換を頑張れば「機能する」けれども、規則が増えたり数式がややこしくなって「苦しい」という感じで。

 

市川
そう、だから論理はいろいろあるけど、それでも「苦しい」論理、「苦しくない」論理はある。そこでいう「苦しい」「苦しくない」っていうのは、自然界を記述する道具としての「苦しい」「苦しくない」なんだよね。で、やっぱり「その論理体系の中での正しい/正しくないの区分が、自然界での機能する/機能しないの区分ととてもラクによく合う」という、我々の普段のイメージ通りの論理はありうる

 

▲山下
論理それ自体は自然界とは関係ないんだけど、それでも論理というのは自然界に適応するための道具としての役割を期待されているのではないかという話ですね。どういう欲望が背後で働いているのかとかの話は、これは生物学的な話になってくるのかもしれない。

 

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道具としての出来不出来を複数の論理が互いに競い合うという状況になると、こないだ僕が言った説得の話とかにも関わってきますね。もしかしたら、大昔にいろんな論理体系をいろんな人が主張する中で権力闘争が起こって、そこで権力に辿りつけた論理体系が唯一の「正しい」論理体系として広まって今に至るのかもしれない。
ソクラテスが殺されたのも案外この文脈で理解するべきだったりして。プロタゴラスが「人間は万物の尺度である」っていう、平たく言えば「何事も人それぞれだよね」っていう話をしていたところに、唯一の真実を求めるようなソクラテス&プラトン的な動きが起こって、その政治的な危険性が危惧されてソクラテスは死刑になったんじゃないか、と。そしてそれ以降の哲学の歴史とはプラトン的な独裁主義の下に動いてきたんじゃないでしょうか。

 

市川
あー、ありそう。ってかそうなんじゃないかな。まあ、証拠はないけども。民主主義が現在死につつあるとか言われている流れとも繋がるかもしれないね。
論理が今のような受け入れられ方をするに至った経緯がそうだとすると、その権力の掌握には暴力も使われていたはずで、その中には暴力が無理のある論理を押し付けたこともあるだろうけど、多くの場合は論理が技術として具現化して暴力になったことで権力に繋がったんじゃないだろうか。つまり、工学と権力の結婚が多様な論理体系の中から唯一の論理体系を選び取った。

 

▲山下
社会と技術が論理学に先立つ、なんていうとさらに掘り下げられそうですね。まあでも、流石に長くなり過ぎた感もあるので、これもまたそのうち……。

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